浸リ込みを手放す/ビジョン心理学チャック・スペザーノ博士癒しの原則

浸リ込みを手放す

私たちは自分自身を慰め、喜ばせようとして自分を甘やかします。疲れや犠牲を補おうとして、あるいは仕事をよくやったご褒美として浸り込みます。

残念なことに、自分を甘やかしても、私たちの渇望が満たされることもなければ、ニーズが満たされることもありません。

そこで私たちはさらに浸り、わがままになります。しかし、結局は、浸り込みに対する罪悪感を感じてもっと気分が悪くなるだけです。

そこで私たちは、自分を犠牲にすることでその罪悪感を清算しようとします。犠牲は私たちに報いを与えてくれませんから、結局は疲れや燃え尽きに至ってしまいます。

するとまた、ご褒美に少しぐらい何かに浸り込んでもいい、 そうしないとやっていけないと私たちは考えるわけです。

これが悪循環となり、浸り込みが中毒や崇拝に悪化してしまうこともあるのです。

犠牲は、家族を救うための役割から始まっていますから、私たちは幼い時から浸り込みという名のわがままと犠牲のパターンを繰り返してきたのです。 また、先祖からこのパターンを受け継いできたとも考えられます。

もしも誰かが私たちの道楽やちょっとした楽しみを非難し、それを取り上げようとしようものなら、私たちはやっとの思いで手に入れたささやかな楽しみの正当性を主張して、死にものぐるいで戦います。

しかしこれは、エゴが作り出したニーズです。エゴは、私たちが小さな楽しみにしか値しないつまらない存在であると言いたいのです。

こうした自己概念やニーズがエゴを強め、それが自分はこの肉体であると私たちに思わせるのです。

エゴによる怖れの解消方法は、わがままや犠牲によって隠すことです。

エゴはずっと浸り込みを続けるようにと言いながら、実はひそかに孤独を作り上げます。これでは落とし穴を深くするばかりです。

浸り込みという名のわがままを手放すと、矛盾するようですが、受け取ることにオープンになれ、自分自身を楽しむことができるのです。

自分を甘やかしても満足できないばかりか、犠牲に至る悪循環を作り出すだけだと気づくことによって、浸り込みを癒すことができます。

浸り込みに対して自分を責めるのは、罪悪感や犠牲、さらには浸り込みを増長させるだけです。

ニーズを癒し、自己概念を手放すことが、私たちを自由にします。

人生に本当の意味や喜びを与えるものは何かを考えてみると、浸り込みの道は、ただ感情的なツケにつながるだけなのだとわかります。

わがままと犠牲は、私たちの社会では幅をきかせている罠です。

それから自由になるためには、もっとよい方法があると気がつかなければなりません。この新しい方法では、快楽のための自分の計画をあきらめます。私たちが計画する楽しみは、同じ程度の痛みを遅かれ早かれもたらすからです。

犠牲とわがままの代わりに、私たちには贈り物、流れ、そして喜びにあふれた天の計画が与えられています。

浸り込みは私たちと他の人たちとの間にある壁ですが、私たちの贈り物が他の人たちとのつながりを作るのです。わがままな自己概念は何層もあり、すべて犠牲につながります。

エクササイズ

 

今日、何かに対する渇望が出てきたら、それをする代わりに誰を許すべきなのかを自分に尋ねてみましょう。

その人がわかったら、ハイヤーマインドに尋ねてください。

その人を許す代わりに何かに浸ると、あなたの望む幸せをもたらしてくれるのかどうかと。

何かにおぼれる代わりに何ができるかを自分に尋ねてください。

あなたの人生を築くため、別の選択をする時です。

本当に価値のあることの代わりに浸り込むのをやめる時です。

この罠の下に隠れている贈り物や喜びを探す時です。

ビジョン心理学創始者 チャック・スペザーノ博士

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